「(初代)讃岐丸」は昭和36年、国内初の自動化船として就航しました。
この自動化というのは、操船の殆どを操舵室からの遠隔操作で対応するものでした。
また、推進器もドイツ製のフォイト・シュナイダープロペラという、羽根は下向きについており、
この角度を変えることによって、プロペラの回転方向や回転数を一定に保ったまま前後進・回頭・真横といった様々な動きが可能となりました。
そしてこのプロペラの特徴から舵は付いておらず、船底の姿は結構違和感のあるものでした。 船内は、この船から座席や棚等の備品が電車用と共通になっており、いかにも「国鉄連絡船」という感じでした。 (図.初代讃岐丸の推進器) |
(図.初代讃岐丸) ただ、潮流の激しい瀬戸内海を航行するにあたり、推進器で舵の役目も兼用していた為に全速前進をする事があまり出来ず遅い船足が余計に 遅くなり、また故障が多くてダイヤの乱れがしばしばあった事が悔やまれます。それでも、船の寿命としては短いながらにも14年間を務め上げ、 最後の1年間は「第一讃岐丸」と改名して車両渡船として運航した後、 引退していきました。まさに、「牛」にように粘り強い一生だったと思います。 その後の青函連絡船「津軽丸型」と、本航路の「伊予丸型」は、 この船のデータを基に建造されたといわれています。 |