コラム


 このコラムでは、連絡船に関係する様々な事柄を不定期に特集します。
最新号 32.干支生まれの連絡船(9)(2010/2/19)


1.宇高航路のいきさつ(2000/10/2)
2.玉野市民から見た連絡船(2001/3/2)
3.生まれ変わった元連絡船(2001/4/27)
4.高松港(2001/8/20)
5.秋のイベント船(2001/11/1)

6.秋のイベント船〜讃岐丸編〜(2001/12/7)
7.干支生まれの連絡船(1) (2002/2/7)
8.国鉄宇野線と連絡船(2002/3/22)
9.宇高ホーバークラフト(2002/5/11)
10.宇野港イベント今昔(2002/6/12)

11.定期便「(2代目)讃岐丸」の回想(2002/7/20)
12.戦時下の宇高連絡船(2002/9/4)
13.挨拶代わりの一杯(2002/10/14)
14.瀬戸丸の一生(2002/11/16)
15.干支生まれの連絡船(2)(2003/1/15)

16.宇野港の過去・現在・未来(1)(2003/3/7)
17.宇野港の過去・現在・未来(2)(2003/4/14)
18.宇野港の過去・現在・未来(3)(2003/5/24)
19.悪天候との闘い〜「たまの・港フェスティバル」後記〜(2003/7/6)
20.連絡船で皿鉢弁当(2003/8/24)

21.長崎旅行記〜「大雪丸」に望む〜(2003/9/28)
22.干支生まれの連絡船(3)(2004/1/19)
23.散逸する資料(2004/3/26)
24.来年の「たまの・港フェスティバル」に向けて(2004/8/6)
25.干支生まれの連絡船(4)(2005/1/7)

26.追悼 山本春一船長(2005/8/18)
27.連絡船の余生(2005/11/28)
28.干支生まれの連絡船(5)(2006/1/5)
29.干支生まれの連絡船(6)(2007/4/28)
30.干支生まれの連絡船(7)(2008/1/30)

31.干支生まれの連絡船(8)(2009/1/29)
32.干支生まれの連絡船(9)(2010/2/19)






11.定期便「(2代目)讃岐丸」の回想


 毎年7月20日は「海の日」として祝日になっていますが、この日誕生日にあたる連絡船があります。 その船は「(2代目)讃岐丸」です。

 同船は、昭和49年7月20日に普通定期便扱いでは最後の宇高連絡船として就航しまし た。大別すれば「伊予丸型」に属しますが、エンジン数の増加や 塗装デザインの変更など、先に就航した「伊予丸」「土佐丸」「阿波丸」の改良船としてデビュー しました。
 しかし、この讃岐丸の新しさから、年を追う毎に定期便としての就航回数は減少し、 貸し切り船として出航することが多くなりました。そのため、宇野・高松両港以外からも 発着できるように昭和60年以降は左舷中央部に簡易タラップを取り付けたり、後部客室をマス席にするなど、 連絡船の機能を残しつつ次第に観光船的要素を取り入れていくようになりました。結局、この貸し切り船に よる収益の良さから、連絡船廃止後も観光船として一隻残すこととなり、耐用年数の長さと貸し切り船としての 実績から、「讃岐丸」に白羽の矢が立ちました。

 筆者自身、定期便の「讃岐丸」に乗船したのは小学1年生の夏休み(昭和57年)が 最後だったと思います。桟橋通路から見えるグリーン船室の窓下に描かれた船体色のモールディングラインと、同色の大きな「JNR」マークが今でも脳裏に焼き付いています。

(図.連絡船讃岐丸)



(図.国鉄コンテナを積載した讃岐丸)


(写真提供:谷本武志氏)



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12.戦時下の宇高連絡船


 昭和16年12月の太平洋戦争勃発により、各地で軍事関係による旅客や貨物が増大しました。 宇高航路も例外ではなく、輸送量もこのころから急激に増大してしばしば混雑状態に陥っていました。
 この混乱を解消するために、昭和17年の関門トンネル開通により関門航路から貨車渡船の関門丸が 5隻宇高航路に転属してきましたが、岸壁側設備の能力不備から貨物輸送量はあまり伸びず、 岸壁には積み残しの貨車が長い列を作っていました。一方、旅客輸送は軍人の移動、徴用、勤労動員、 疎開等急激な旅客の増加はありましたが、旅客船の増強は特にされず、こちらも多くの積み残し客を 出しました。
 このため軍事以外の旅客・貨物の輸送に対して大幅な積載制限がとられましたが、それでも状況は悪化の 一途をたどり、依然として積み残しの旅客・貨物が岸壁に溢れかえっていました。
 昭和19年9月頃には高松から三井造船玉造船所へ勤労動員学生を輸送するために、 高松発の連絡船を玉造船所に寄港させるという苦肉の策がとられたりもしました。


 宇高航路は軍事的に重要な路線であったため、空襲などへの防衛として機関銃が連絡船に配備 されていました。水島丸・南海丸・山陽丸と関門丸型にはそれぞれ二丁、宇高丸型にはそれぞれ一丁が 配備され、水兵も乗り組んだこともありました。
 そのような中、昭和20年7月24日には水島丸が、8月8日には第五関門丸が米軍の空母艦載機による 銃撃を受けて多くの乗員と水兵に死傷者を出し、その後8月15日に日本は終戦を迎えました。



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13.挨拶代わりの一杯


 私が最初に宇野駅の構内にうどん屋があるのに気付いたのは、今から30数年前の3〜4歳の頃でした。 千葉の親戚の家に遊びに行くために「特急うずしお(宇野〜新大阪)」に乗車する時、 2番3番ホームの連絡橋の下に暖簾を掛けた入り口から湯気が上がってるのが見えました。同行していた祖母に 何の店か訊いてみると「うどん屋」との事。当時宇野線のホームでは駅弁の立ち売りがあったり 売店ではまだ缶入り飲料が珍しく、瓶入りのジュースを買うと栓を抜いてくれて紙コップを 瓶に乗っけて手渡ししていた時代です。その後も何度か宝塚の親戚の家に行くため「急行鷲羽」に乗る時にも そのうどん屋の存在を確認していましたが、まだ小学生にも満たない頃なのでうどんを頂く事も無く、 その後宇野線を利用する事が無くなりました。

 小学校3年の時に岡山の親戚の家に遊びに行くため、久し振りに宇野線を利用しましたが、 その頃の宇野線は昼間の鷲羽の運転は無くなり、宇野駅の2番ホームは「寝台特急瀬戸」と夜行運転の「鷲羽」 のみでメインは快速専用と化した3番ホームでした。その時の連絡橋階段の下にはうどん屋の跡があり、残された 看板に「うずしお」という屋号が確認できました。そのうどん屋の跡を眺めながら子供ながらに「一度ココで うどんを食べてみたかった」と思ったのでした。
 宇野線快速に乗って岡山駅の11番ホームに降り立つと何処からかイイ匂いが漂ってきます。匂いが する方に歩み寄ると岡山駅構内の連絡橋の下に「うどん」の暖簾が。私は恐る恐るその暖簾の中へ。 中はお客が結構居る。店内を見渡していると店員に「うどんかな?」って訊かれて「うん」って頷く私。 品書きは「天ぷらうどん\100」のみ。程無くできあがたうどんを一口啜る。緊張していて無我夢中でササッと 平らげてカウンターに丼を返して「ごちそうさま!」って言って慌てて店を飛び出す。心の中で「宇野駅の 構内にあったうどんってあんな感じだったのかな?」と。実はこれが私の「駅構内の立ち食いうどんデビュー」 だったのです。この時は何と無くオトナになったような気がしていたのを思い出します。

(図.連絡船のうどん売店)


 その後何度か行く内に岡山駅構内のうどん屋さんはホームによって店が違う事に気付き、
山陽本線ホームは「みよしののうどん屋」
伯備線ホームは「大山そば」
そして宇野線は全然違う別の店で、器もダシも天ぷらもそして「うどんの玉」も違いました。 それから宇野線ホームのうどん屋の店の細部を見渡すようになり、 ある日入り口に貼ってある国鉄の建物認可表記に「うずしお店」って書かれてるのを見て感動したのを 覚えています。後で聞いた話によると、かつて宇野駅構内にあったお店と同じ店だったそうです。
 その後宇野線ホームのうどん屋さんは経営母体が色々変わり、現在は「KIOSK」が 経営しています。メニューは豊富で券売機で食券を買うようになっており、以前のような感じの立ち食い うどんの様相はありません。

 岡山駅の宇野線ホームのうどん屋で、以前耳にした宇野線利用の連絡船渡航客の会話が 今でも思い出されます。
「新幹線から降りてチョットの時間にココで慌しく頂くうどんがええんや!」
同行してた方が続けて
「あの慌しさが余計に美味く感じさせますねぇ〜」
もう一人が
「30分電車で揺られたら、今度は船の上でゆっくりもう一杯!」


(文:湊川凛太郎氏、写真提供:谷本武志氏)



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14.瀬戸丸の一生


 宇高連絡船の歴史を語る中で、「紫雲丸」は事件性の高い船として欠かせない存在だと思われます。 しかし、昭和30年5月11日に発生した沈没事故で引き揚げられた「紫雲丸」は、後に「瀬戸丸」として 再就航した事についてはあまり知られていません。そこで、今回は宇高連絡船「瀬戸丸」についてのお話を したいと思います。


(図.瀬戸丸と宇野桟橋[昭和40年頃])


 まず船名は、「紫雲丸」が「紫雲山(香川県)」、「眉山丸」が「眉山(徳島県)」、「鷲羽丸」が 「鷲羽山(岡山県)」と、紫雲丸型の船は山の名前から由来していますが、「瀬戸丸」だけは 一般公募によって決まったものでした。次に、外観上は国鉄宇高航路の客船クラス(車載客船)としては、 最初にカラー化を実現しました。ちなみに、国鉄では同航路の貨物船(車両航送船)である「第三宇高丸」が 初のカラー化の口火を切りました。煙突は、それまでの「平行四辺形型」から「台形型」に変更されました。 これは、沈船「紫雲丸」を引き揚げた際に左舷側の煙突が折れていたという事実と「3隻同じ船を造ると1隻は 不幸になる」という迷信からではないかと考えられています。
 他にも、安全面に関しては様々な改善がなされて「瀬戸丸」は就航し、10年半弱の任務を全うし、昭和41年 6月に売却されました。その後は車両甲板より上を取り払い、広島県の金輪ドックで台船として使用されて いました。しかし、この事を紹介した文面のほとんどが「元・瀬戸丸」ではなく「元・紫雲丸」とは皮肉な 話です。



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15.干支生まれの連絡船(2)


 本年最初のコラムは未年生まれの連絡船という事で、「阿波丸」に関するエピソードを御紹介します。

 阿波丸は「伊予丸型」の第3船で、先に就航していた 「紫雲丸型」との取り替え計画(昭和42年終了)の 最終船でもあります。「伊予丸型」は当初3隻のみの計画でしたが、昭和49年に同型の 「讃岐丸」が 就航するまでの間、「伊予丸」「土佐丸」と共に「三姉妹」と称されていました。



(図.連絡船阿波丸)



(図.終航後の阿波丸[平成4年 内海湾])


 昭和63年の終航後は、伊予丸と行動を共にし、JR四国(高松)から「ハヤシマリンカンパニー」 (長崎)、「徳永通商」(大阪)の順に転売され、係留地も長崎港(昭和63年夏〜平成2年秋)の後、 香川県内海町(小豆島)の内海湾(平成2年秋〜同5年夏)へと移しました。
 最終的に阿波丸はインドネシアに、伊予丸は中国に売却され、現在はそれぞれ 「TITIAN MURNI」という船名でカーフェリーとして、「伊予」という船名で貨物船として第2の船生を 異国の地で送っています。




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