毎年7月20日は「海の日」として祝日になっていますが、この日誕生日にあたる連絡船があります。
その船は「(2代目)讃岐丸」です。 同船は、昭和49年7月20日に普通定期便扱いでは最後の宇高連絡船として就航しまし た。大別すれば「伊予丸型」に属しますが、エンジン数の増加や 塗装デザインの変更など、先に就航した「伊予丸」「土佐丸」「阿波丸」の改良船としてデビュー しました。 しかし、この讃岐丸の新しさから、年を追う毎に定期便としての就航回数は減少し、 貸し切り船として出航することが多くなりました。そのため、宇野・高松両港以外からも 発着できるように昭和60年以降は左舷中央部に簡易タラップを取り付けたり、後部客室をマス席にするなど、 連絡船の機能を残しつつ次第に観光船的要素を取り入れていくようになりました。結局、この貸し切り船に よる収益の良さから、連絡船廃止後も観光船として一隻残すこととなり、耐用年数の長さと貸し切り船としての 実績から、「讃岐丸」に白羽の矢が立ちました。 筆者自身、定期便の「讃岐丸」に乗船したのは小学1年生の夏休み(昭和57年)が 最後だったと思います。桟橋通路から見えるグリーン船室の窓下に描かれた船体色のモールディングラインと、同色の大きな「JNR」マークが今でも脳裏に焼き付いています。 |
(図.連絡船讃岐丸) (図.国鉄コンテナを積載した讃岐丸) |
昭和16年12月の太平洋戦争勃発により、各地で軍事関係による旅客や貨物が増大しました。
宇高航路も例外ではなく、輸送量もこのころから急激に増大してしばしば混雑状態に陥っていました。 この混乱を解消するために、昭和17年の関門トンネル開通により関門航路から貨車渡船の関門丸が 5隻宇高航路に転属してきましたが、岸壁側設備の能力不備から貨物輸送量はあまり伸びず、 岸壁には積み残しの貨車が長い列を作っていました。一方、旅客輸送は軍人の移動、徴用、勤労動員、 疎開等急激な旅客の増加はありましたが、旅客船の増強は特にされず、こちらも多くの積み残し客を 出しました。 このため軍事以外の旅客・貨物の輸送に対して大幅な積載制限がとられましたが、それでも状況は悪化の 一途をたどり、依然として積み残しの旅客・貨物が岸壁に溢れかえっていました。 |
昭和19年9月頃には高松から三井造船玉造船所へ勤労動員学生を輸送するために、
高松発の連絡船を玉造船所に寄港させるという苦肉の策がとられたりもしました。 宇高航路は軍事的に重要な路線であったため、空襲などへの防衛として機関銃が連絡船に配備 されていました。水島丸・南海丸・山陽丸と関門丸型にはそれぞれ二丁、宇高丸型にはそれぞれ一丁が 配備され、水兵も乗り組んだこともありました。 そのような中、昭和20年7月24日には水島丸が、8月8日には第五関門丸が米軍の空母艦載機による 銃撃を受けて多くの乗員と水兵に死傷者を出し、その後8月15日に日本は終戦を迎えました。 |
本年最初のコラムは未年生まれの連絡船という事で、「阿波丸」に関するエピソードを御紹介します。
阿波丸は「伊予丸型」の第3船で、先に就航していた 「紫雲丸型」との取り替え計画(昭和42年終了)の 最終船でもあります。「伊予丸型」は当初3隻のみの計画でしたが、昭和49年に同型の 「讃岐丸」が 就航するまでの間、「伊予丸」「土佐丸」と共に「三姉妹」と称されていました。 (図.連絡船阿波丸) |
(図.終航後の阿波丸[平成4年 内海湾]) 昭和63年の終航後は、伊予丸と行動を共にし、JR四国(高松)から「ハヤシマリンカンパニー」 (長崎)、「徳永通商」(大阪)の順に転売され、係留地も長崎港(昭和63年夏〜平成2年秋)の後、 香川県内海町(小豆島)の内海湾(平成2年秋〜同5年夏)へと移しました。 最終的に阿波丸はインドネシアに、伊予丸は中国に売却され、現在はそれぞれ 「TITIAN MURNI」という船名でカーフェリーとして、「伊予」という船名で貨物船として第2の船生を 異国の地で送っています。 |